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アニメ「The Last Unicorn」―新資料から作品の主題や映像表現を考察する― 【第2回】

黒田 誠 (くろだ まこと) 和洋女子大学 准教授

世界的な人気を誇るアメリカのファンタジー作品「The Last Unicorn」。この連載では、原作と、日本の伝説のアニメプロダクションによって成されたアニメ版を比較することで、「The Last Unicorn」の哲学的主題を考察する。さらに、絵コンテやシナリオなど未公開の資料を詳細に検証することで、 原作とアニメ版に取り入れられている思想的な要素や優れた特質を探る。

第2回 「サブカルチャーと一元論」

『最後のユニコーン』の形而上的主題は、矛盾する様態の重ね合わせという表現を選択する非在性記述に窺われた。それは、動作を行うものと動作を被るものの間の差異を設けない一元論的記法ともいえる。殊に印象的なのが、物語の主人公であるユニコーンとその宿敵であるレッド・ブルを語る記述だ。

 

低い、悲しげな叫び声をあげて、ユニコーンは身体の向きを変え、今来た道を引き返した。引き裂かれた畑をまた戻り、草原を横切り、元のまま黒く背を丸めたハガード王の城の方へと行くのだった。そしてレッド・ブルは、彼女の怯える心の後を付いて行った。

 

追うものが追われるものに対してその行為により恐怖感を与える、という主客の因果関係が逆転する。同様の反転的因果関係を示す記述は、追う牡牛と追われるユニコーンの後をあたふたとついて行くシュメンドリックとモリーを語る描写にも繰り返される。

 

モリーとシュメンドリックは巨大な木々の残骸の上を乗り越えて進んでいった。それらは打ち砕かれているだけでなく、踏み付けられて地面の中に半分埋まり込んでいるのだった。四つん這いになって、暗闇の中では深さも知れない地の裂け目を避けて進まなければならなかった。モリーは頭をくらくらさせながら思った。「レッド・ブルの蹄がこんな裂け目を穿った筈はない。牡牛の重さを嫌って、地面の方が自分から裂けてしまったのだ」

 

レッド・ブルの途轍も無い巨大さが残した破壊の痕跡として、倒された木々や裂けた地面が残されている。しかしそのあまりの凄まじさにこのような出来事が起こったとは信じ難いばかりか、むしろ原因となる牡牛の実体性そのものに疑念が持たれてしまうのだ。

 

力学的因果関係の論理に従えば、現象を起こすべき実体の一方がもう一方に対して動作を働きかけるものとされる。そこには作用の連鎖として能動と受動の関係が存在する。しかし古代世界の伝統的思想における事象とは、変化し続ける全体の与える主観的印象の相対的局相として理解されるものだった。意識内部の体験的意味形成(主観)に対して客観的定義を与えることの困難が、デイヴィッド・チャーマーズなどの哲学者たちによって指摘されている。例えば、「時間とは主観的な感覚であり、客観的に定義することは難しい」というもの。これは“クオリアのハードプロブレム”として論議される、意識の科学的解明に付随する難問なのだ。しかし行為を行うものとその働きを被るものとを分別する感覚は、一元論に代表される全体性の思想の許には存在しなかった。観察される客観的事象が普遍的真実として確定されねばならないというのは、科学思想が要求した仮説だ。

 

ユニコーンを狩るレッド・ブルとレッド・ブルによって狩られるユニコーンは個別の実体ではなく、一つの存在あるいは現象の対極的な位相であるかのようだ。

 

モリー・グルーは、疲れと恐怖のために正気を半分失ってしまい、星や石が宙を移動していくのを見るような気持ちで、ユニコーンとレッド・ブルの姿を見続けていた。彼等はいつまでも二人きりで、いつまでも一方は落ち続け、もう一方がその後に続いていくかのようだった。

 

The Last Unicornの中心主題である魔法の原理を語る記述においても、主客の分別を意識することのない統合的把握が、物理事象と抽象概念の区別を廃して語られる。魔法は術者と被施術者の精神の感応による相互作用であり、双方の霊的位相の共和でもある。このような形で霊性に感応するものとして共感覚的理解が語られているところに、このお話の魔法の意義がある。ユニコーンやハーピーの存在が魔法そのものであったように、人間存在の知覚や概念を超越した魔法の発現は、饒舌な予言を語る蝶の発話として現れもすれば、謎の言葉をつぶやく異教の神のような猫の姿で現れもする。

 

哲学的おとぎ話の先駆者であった『ピーターとウェンディ』においては、意味破壊による現実の限界を超えた“位相空間”発現原理によって、物質と精神を包摂する宇宙の一様相であるピーターという神格が顕現していた。この精神作用は『涼宮ハルヒの憂鬱』でハルヒが無意識に発現してしまっていた“閉鎖空間”とも同調する、原意識の力だ。暴君ハガード王の滅亡の後不毛の地となったハグズゲイトの町の将来を語るシュメンドリックの言葉は、全体性の宇宙の本質と知覚との関係性を語っている。

 

「再び小麦畑に種をまき、倒れ付した果樹園と葡萄畑を作り直すことはできます。でも、どれも以前のように豊かな実りをもたらすことはないでしょう。何の理由も無しにこれらの畑から喜びを見いだすことを、あなた方が覚えるようになるまでは」

 

人間精神が打算と功利主義に頼る限り、真の心の喜びを得ることはない。真言と同調すべき心霊の満足は、他の価値基準に則った評価によっては推し量り得ない。理不尽なるが故に信じ、劣悪なるが故に愛する心が喜びをもたらす。そして心に得たその喜びが、豊かな実りをもたらすというのだ。

 

このような直覚の力は、例えばアニメ『Madlax』にも描かれている。この作品は敢えて特定の思想との関連を語ることを避けているが、我々の知識に最も近い解式は、ユング心理学あるいはポスト量子力学の発想から得られるものだ。量子力学によって得られた科学的知見と錬金術等の古代思想から継承された魔術的理念の重合部分に、全体性の構造における事象発現に関与する意識の理解が図られる。これに従えば意識の主体の確信が意味を生成し、意味あるものとして存在や現象や人格が本質を確定する。

 

自他の区別を失う自我崩壊の状況は、精神的病理とされてきた。『新世紀エヴェンゲリオン』では、来訪する使徒たちが備えているあらゆる攻撃を無化するATフィールドは、主客分別の精神機能そのものだった。他者に対する恐怖の磁場が“absolute terror field”だった。汎用人型兵器エヴァンゲリオンのATフィールドを用いて使途たちの防壁を浸食する能力は、全ての差異を無化して宇宙を原初的様相に還帰させる力を秘めている。劇場版『新世紀エヴァンゲリオンAir/まごころを、君に』では画面上に観客の姿を映し出すことによって、観るものと観られるものの分別が失われた統合場を暗示していた。

 

多くのアニメ作品は量子力学とユング心理学と連接する形而上的な主題性と、萌え感覚に没入する幼児的感覚を共有している。『ピーターとウェンディ』を生み出した創作理念の直系の継承者が日本のサブカルチャーであり、そのオタク文化の受容をきっかけとしてアメリカで新たにThe Last Unicornの再評価の気運が高まりつつある。

 

The Last Unicornはおとぎ話の風を装った観念小説だった。形而上的概念記述に対する変換操作が達成されたアニメThe Last Unicornは、改めて原作と2次創作作品間の同一性の再考察を要求する。『物語』シリーズの原作者西尾維新が「アニメ化することが不可能」と作中で語っていた会話劇を、新房昭如監督が力技を用いてアニメで成功させた例が改めて思い起こされる。原作者とトップクラフト社の間の奇跡的な精神感応を推測させる要素が、このアニメ作品にはある。原作とアニメは根本的に別物であると同時に純理論的には紛れも無い同一物でもあり得ることが、量子論理的な貫世界存在記述を通して予測される。二次創作作品としてアニメThe Last Unicornが完成に至った過程を再検証すれば、仮構作品の存在同一性という形而上的主題とシンクロニシティの作用について新たな思弁の糸口が見出される。

 

 

【画像の出典】
黒田誠『研究 アニメーション The Last Unicorn』 2012

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黒田 誠 (くろだ まこと) 和洋女子大学 准教授 和洋女子大学でファンタジー文学、アニメ、ゲーム、フィギュアなどのサブカルチャー文化を教授。
『アンチファンタシーというファンタシー』『アンチファンタシーというファンタシーII ピーターS. ビーグル 最後のユニコーン論』『研究 アニメーション The Last Unicorn』『存在・現象・人格ーアニメ、ゲーム、フィギュアと人格同一性』など著書多数。