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一覧西洋のフォ-ク文化と違う東アジア「箸文化圏」の「箸文化」とは【第1回】
馬 彪 山口大学大学院東アジア研究科教授
「アメリカファスト」(ドナルドトランプ)、「イタリアファスト」(マッテオサルヴィーニ)との言い方は、なぜアジア特に東アジアの首脳にはいわれたことがなく、むしろぎゃくに「二じゃーだめか」(蓮舫)との言い方があるか。その理由は必ずしも経済の発達度や人柄にはかかわらなく、二本のお箸を使う人間とフォークを使用する人間のあいだにある考え方の差にもあろうか。むろん、これはどっちが良いかどうかの問題とは別格なことだが、「箸文化」と「フォーク文化」との相違性を明らかにしたうえに、21世紀のグローバル化の現代世界にたいして、私たちは東アジア人として如何なる自分の立場を現在世界に位置付けるべきかとの問題にかかわってくるのではないだろうか。そのため、まず「箸文化圏」と「箸文化」という概念を考えておこう。
「文化圏」という言葉をみたら、殆んどの人は頭には「漢字文化圏」という概念を浮かべてくるかもしれないが、それは中国の南北朝時代(420—589)から唐代にかけての中国の冊封体制に影響された東アジアにおける漢字・儒教・仏教・律令制など普遍性ある地域文化という意味するもの。それがあくまで中国の王朝時代の所産であったので、近代以来インドシナ半島のベトナムをはじめ、朝鮮半島の漢字廃止運動を行い、西洋のアルファベット或はそのような表記化を招いてきた現状になった。
しかし、「箸文化圏」とはそれとは違い、政府行為に無縁である数千年前から中国の貴族と庶民ともお箸を使用してきて、のちに東アジアの各地域はもちろん、その以外の東南アジア地域に自然に浸潤していき、その共有する生活慣習とそこで出た共同意識を指す。このような「箸文化圏」の歴史は上述した南北朝から始まった「漢字文化圏」より2000年以上も古く殷王朝(約前1600—1046)の時代まで遡れそうである。なぜならば、中国古典の記録により、帝王から文字が読めない庶民までの日常茶飯事でのお箸の使用によって「箸文化圏」は誕生した。このような「漢字文化圏」より歴史も長くて影響範囲も広い「箸文化圏」の形成と特徴を明らにしたい。
その範囲は主に中国・日本・韓国・北朝鮮・ベトナムとなるが、またシンガポール・タイ・ラオス・カンポジア・モンゴルなどでもお箸は使われてきた。日本では1975年より毎年8月4日を「箸の日」とし、韓国やモンゴルへ旅行したら焼肉を食べるとき使う鉄箸が印象深い、中国上海にある筷子博物館には各時代の各種の箸が展示されてあることは、東アジア人には日常茶飯事だが、欧米人には新鮮であるのは違いないだろうか。東南アジア諸国を含めて、箸使う総人口は約19億で今日世界人口の76億の25%を占めた。言いかえると、世界中の4人に1人はお箸をつかっているのが現実である。
そもそもお箸とは一つの食具であり、二本の棒によって食品を挟んで口に入れる道具である。一本では使うことのできない前提があり、英語はchopsticksという複数形で表現する。「箸」字は「著」とも書くように、竹や草(木)のものの造形文字であり、その材料は最初、竹・草・木などの植物だったが、のちに銅・鉄・銀・金・象牙・玉・石の材料となった。箸の材料の変化は単なる時代の流れによって技術も発展していた理由のみならず、箸を使用する範囲は最初の竹や木文化地域から石や銅文化地域へ拡大していた可能性を示すこともある。その字は古典にはまた「筯」「梜」とも書かれてあり、食事を助ける竹・木の道具として、食品を挟んで口へ運ぶ役割するものを指す意味である。「箸」の発音は止める「駐」と同じだから、民間には遅くとも元明の時代に漁師から始まり、「駐」の反対する「速い」意味の「快」「筷」と読み替えた。中国では現在に至るまで学名の「箸」より「筷」の方が普通につかわれている。
「箸」の起源は本来なら文字とおり、遥か昔の主に竹や木を道具とする地域の住民たちに発明されたはずであろうかと思われる。しかし、先民たちの発明、特に子孫に多大な影響をあたえるものなら、みな具体的な英雄を想定されたという文化現象がありそうで、少なくとも中国には漢字は倉頡、漢方薬は神農、車は黄帝、そうして箸は禹帝の発明だったという伝説がある。伝説の信憑性の問題は除いて、少なくとも箸は漢方薬や車や漢字と同じく、中国にて文字の誕生する前に発明されたことが考えられるといえよう。
古典や考古学の証拠によって遅くとも殷王朝(前16~前11世紀)には箸の使用は確実なことだった。例えば『韓非子』『史記』に前11世紀ごろの殷紂王が象箸を使用した記録があるが、その時代性の信憑性は殷墟の御陵に王様用な銅製の箸が発見されたことでうらづけられた。また『礼記』に「匕」(「匙」)で米や粟を喰え、「箸」で羹を食するという礼儀を記した。要するに羹というスープにある肉や野菜や麺類を挟んで口にするために「箸」を使う必要があった。
ここで特に指摘したいのは、古典によると箸は大昔から単なる食具として使われていないことである。文献には箸が祭祀の法器や計算の算木としてしばしば登場することは注目するべきであろう。「箸占」「箸祭」についての記載はたびたび文献にみえる。例えば、『荊楚歳時記』に「箸占」によって出産の占いや「箸祭」にしたがってよい養蚕業のお祈りを記した。祭祀のとき、箸で打撃楽器とする記載もよく載せられた。『史記』には劉邦と項羽とが戦ったとき、軍師の張良が劉邦の食事用の箸を借りて籌として戦略を述べた話があったので、のちに「藉箸代籌」(箸をかりて籌を代りなり)という四字熟語となった。
したがって、箸の使用はただの生活慣習のみならず、箸を使う主体となる人間にも影響をあたえ、いわばものが人間を働かした効果も出るはずであろう。その結果の一つが箸文化の誕生である。古に管子に「倉廩実つれば則ち礼節を知り、衣食足れば則ち栄辱を知る」(『管子』「牧民」)とあり、ここでの「倉廩」「衣食」とは物質的な所産、「礼節」「栄辱」とは精神的な所産であり、前者はcivilization、後者はcultureであるが、西周の訳語によると二者は文明と文化との区別にあたる。やはり、人間の「衣食」文明とその様式は人間の「礼節」文化を養成することがある。本論には「箸文化」という概念を提出して、箸で飲食する人間はフォークや手で食べる人間との異なる意識や精神とその文化的な特徴を持つことを探求したいという動機がある。
少々遅いが、そもそも「箸」との定義はなにであろうか。中国に現存最古の部首別辞書である、漢代の『説文解字』では「箸」とは「飯の㩻なり」と解釈されたが、「㩻」は攲とも書き、傾く、傾くものを支える、持ち挟む、という意味である。段玉裁『説文解字注』に「㩻は傾側の意。箸、必ず傾側して之を用いる。故に飯㩻と曰う。宗廟に宥座の器、攲器と曰う。古、亦たまさに㩻器を作るべきなり」とある。というのは、箸は傾いて食品を持ち挟む道具であることがわかるが、問題は箸と宗廟にある「宥座の器」という「攲器」との関係はなにであろうか。
『荀子』「宥坐篇」には以下の物語がある。ある日孔子は生徒達をつれて、自国の魯桓公の祖廟に見学をしに行った。そこで一つの傾いている妙な盛水器をみつけた。孔子は、
これが「宥坐の器」(宥は右と同じ、人君、座右に置きて以て戒とすべきもの)とよばれ、水を入れなければ常に傾いていて(図ab)、「虚しければ則ち欹(かたむ)き」という。水をちょうどこの器の半分の中ほどまで注げば、器はまっすぐ立てるようになり、「中(ちゅう)なれば則ち正しく」という。しかし、それ以上水を入れれば、器が転覆し、「満つれば則ち覆る」と説明した。その際、孔子の弟子が水を注ぎ実験したら、まさにいうとおりだった。
孔子の教えについて生徒達が学んだことは様々あるかもしれない。魯の国王の桓公は生前に「宥坐の器」を常に自分の右の前に置き、「中正」というバランス主義の意識をうけた。このやり方は、そのあとに「座右の銘」へと変わったが、「中正」という道が中国歴代の君主に継承されたことは違いない。ラスト・エンぺラー時代の清朝の皇帝はわざわざ「宥坐の器」を復元したこともあった。王朝時代は百年にも前に終わったが、その「宥坐の器」(図a)【左】は北京の故宮博物館に陳列されている。長崎市の孔子廟に観光しに行ったら「宥坐の器」の復元物(図b)【右】もみえる。
【左】図a.光緒御製の欹器(故宮博物館所蔵)H45.5×18.7×14cm
【右】図b.長崎市孔子廟内に置いてる「宥坐之器」
なるほど、孔子が1コマで教えた「中正」精神を、庶民たちは毎日、箸という飯の平衡器で食べ物をバランス取って口にすることによって千年以上を掛けて、同じ道理をみにつけることになった。その道理を私は箸文化のバランス意識だと名付けたい。ここで「箸文化」とは、西洋式のようになにもかもナンバーワンになりたいのと違い、すべてのことに二つの分極点(二本の箸)のバランスがとれることを強調する文化であると定義しておこう。次回からは古から今現在までの箸文化のバランス意識の諸特徴を紹介していこうと思う。
引用文献・参考文献
・『礼記』、『管子』、『荀子』、『韓非子』、『史記』、『荊楚歳時記』
・太田昌子『箸の源流を探る中国古代における箸使用習俗の成立』汲古書院、2001
・馬彪「お箸の平衡主義文化論序説」『異文化研究』2016年3月第10号