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一覧科学を統治する市民を育てる【第1回】 「文明社会の野蛮人」を超えて
荻原 彰(おぎはら あきら) 三重大学 教育学部
「文明社会の野蛮人」を超えて
スペインの思想家オルテガ・イ・ガセットは、「文明(ここでは科学技術文明をさす)をそれがあたかも自然物であるかのように使っている」人々が「時代の支配的人間像」となったことを指摘している。オルテガの論はヨーロッパ文明の優越性とエリートによる支配を当然の前提としているので、違和感を禁じ得ない部分は多々あるが、現代の多くの人々が、科学技術の産物をあたかも自然物であるかのようにみなして、科学技術の成果は享受するが、科学技術を生み出す努力やプロセスには無関心であること、いわゆる「文明社会の野蛮人」であることは否定できないように思われる。
我々は巨大で精緻な科学技術システムに依存して生きている。中東から1万2000kmの距離を輸送するタンカーが運ぶ石油による発電で暮らし、地球の上空約2万kmの軌道に沿って配置された95機(2018年4月現在)の測位衛星によるGPSに依存して行動している。しかしこれらのシステムが我々の生活を根底から支えていることはほとんど意識されていない。科学技術は自然物のように我々の日常世界の中に埋め込まれており、その成果が普遍的に享受されていても、それが機能するプロセスあるいは生成されるプロセスに関心が向けられることはほとんどないのである。まれに関心が向けられることはあっても、その目も眩むような専門性と、国家や巨大企業を背景とする権力性に圧倒され、「専門家にしかわからない」、「専門家に任せればよい」という一種の思考停止に陥り、日常のあれやこれやに紛れていつしか関心も薄れてしまうというのが多くの人の実態であろう。
システムが専門家の手によって大過なく運用され、人々のニーズを的確に充足してくれるのならば「専門家にお任せ」でも大きな問題はないと言えるのかもしれない。しかし福島第一原発の事故や薬害エイズ事件が示すように、システムの破綻は起こりうるし、それが社会の基幹をなす大きなシステムであればあるほど一般の市民に対する被害は大きくなる。福島第一原発の事故の際、首相官邸の描いた最悪シナリオでは、首都圏3000万人を避難させる必要性があるとされていた。もちろんこんなことは不可能であり、これは日本破滅のシナリオに他ならない。たった一つの発電所の事故がGDP世界第3位の大国を破滅させる可能性があったのである。しかしこのような巨大事故があり、高い放射能レベルに阻まれて事故の詳細の分析が進んでいないにもかかわらず、原発再稼働は進み、首相官邸と経済産業省は原発輸出つまり「国内で売れないなら海外に」という輸出戦略の旗を振っている(もっともこれはことごとく失敗しているが)。これは産業や権力と複合した現代の科学技術システムが内部から変わることがほとんど不可能なことを示している。
これらのことから汲むべき第一の教訓は、もはや科学技術システムの開発や運用は専門家(科学者・技術者・官僚)とその背後の権力(政治家、企業経営者)、つまりシステム内部の人々に白紙委任はできないということであろう。システム外部の人々(市民)がシステムの大きな方向性の決定に参与し、システムの暴走を防ぐことが必要となる。そのためには、市民が自分たちの生活を支える科学技術システムの内部プロセスに関心を持ち、システムを見えにくくしている専門性の壁を乗り越え、専門家の知見を学び、自分の意見を形成しようとする意欲を持つこと、専門家や他の市民とのコミュニケーション能力を身につけることが求められる。
これは市民に専門家になることを求めるものではない。個別的知識の集積ではなく、総合的な判断力、自己が意思決定の責任を担うという自覚と主体性を持つこと、つまり知識ではなく知恵を求めているのであり、いわば賢人となること。科学技術を統治することのできる市民を求めているのである。
今後の科学教育の大きな使命はここにある。「文明社会の野蛮人」であることを超え、専門家とともに科学技術システムとそれに支えられた現代文明の行方を主体的に決定していく市民、「文明社会の賢人」を育成することが科学教育の(おそらくもっとも大きな)使命である。
では「文明社会の賢人」を育てるためにはどのような教育が必要なのだろうか。それについて考えていこう。