連載
一覧アニメ「The Last Unicorn」―新資料から作品の主題や映像表現を考察する― 【第4回】
黒田 誠 (くろだ まこと) 和洋女子大学 准教授
第4回 「絵コンテと日本語訳シナリオ」
The Last Unicornは、ユニコーンたちの消息を探し求める探求の旅の物語であった。しかし目的地に到着すると、ファンタシーの類型に反してピントのずれた恋愛劇の幕開けとなる。アマルシア姫の姿を目にして騎士として覚醒を果たしたリア王子の行動が正調のロマンスに対する揶揄として語られるのが、原作のアンチファンタシーの妙味だ。映像化が難しい部分で、アニメでは神懸かり的な表現を達成している。
“アメリカ”の歌うコーラスの背景を描く絵コンテには、ユニコーンの影と海を泳ぐ一角鯨の姿が対置され、虚と実の対比が窺われる。絵コンテに付した注意書きから、この着想はビーグルのシナリオによることが分かる。印象的な影の表現は、原作者自身の発案だった。
次のシーンの絵コンテでは、城壁にマミー・フォルチュナの鳥の姿がある。原作にはなかったこのキャラクターも、ビーグルの考案らしい。しかしアメリカのコーラスでは、「マグパイが飛ぶ」と歌われている。シナリオではこの鳥は“マグパイ”(カササギ)とされている。しかし画面に登場するのはカラスに変更されている。この辺りのアレンジが、トップクラフト社の成し遂げた主題形成の工夫だ。このカラスはあちこちの場面で登場して、影の主題を緊密に折り畳む演出上の要諦をなしている。シナリオと絵コンテの記載を対照すると、絶妙な変換操作を施されたこの鳥がビーグルの着想とトップクラフト社の演出の接点になっている。
ロマンスのヒーローの仕事は怪物退治だ。殺した化物の首を“トロフィー”として愛するお姫様に捧げるのが常道だ。しかしユニコーンであったアマルシア姫は、そんなものには心を動かされない。男性原理を集約したロマンスの常套を転覆する、女性原理的価値観が再構築されている。リアが退治するドラゴンは、絵コンテでは西洋の伝説にある恐竜のような姿だ。シナリオにも「典型的な伝説のドラゴン」と記されている。しかし完成版アニメでは、東洋の龍の姿に改められている。トップクラフト社の独自のアレンジを示す部分だ。シナリオではミッドナイト・カーニバルの見世物にされていたドラゴンが、「日本の龍の姿」と記されていた。トップクラフト社は、この記述の拡大解釈を試みたのだ。
メトロポリタン美術館所蔵のタペストリーを通して伝えられた伝説では、ユニコーンは王権の守護者で男性原理の象徴だった。これを雌のユニコーンに変更しているのが原作の妙味だ。ここにThe Last Unicorn の重要な仮構的意味が見出される。原作の捻りのある記述を城内の背景描写に適用して変換記述を企てたのが、トップクラフト社の名人芸だ。大広間のアマルシア姫の背後には、伝承の通りの猛々しいユニコーンの姿が窺える。アニメの映像は人の姿をとったユニコーンであるアマルシア姫と、虚像のユニコーンを描いたタペストリーが映し出される鏡面を配して、虚と実の折り畳まれた場面を構築している。この視覚的対比がいかにして着想されたのかが気になっていた部分だ。ユニコーン伝説の出典とされる「貴婦人とユニコーン」のタペストリーも、大広間の壁にある。このタペストリー表現がオープニングで活用され、さらに『風の谷のナウシカ』のエンディングにも採用されている。
本物と偽物、実在物と非在物の関係を解体して妄想と夢幻の中に真実の影を見出す直覚を焙り出そうとする創作戦略は、類例のない力技だ。絵コンテには形而上的な映像表現に挑戦した苦心が窺われる。
ハガード王の息子リアが料理番のモリーに恋愛相談をしにやってきて、ユニコーンの仲間に加わることになる。ユニコーンをこの世から抹消していた張本人が、ユニコーンの美を最も高く賞賛する感性を備えたハガード王だった。目的地に辿り着きながら行動を起こそうとしないアマルシア姫の態度にじれて、敵対者が自ら秘密を暴き、物語の終局を導くことになる。行為者と行為を被る対象の位相が反転し一体化する物語論的構図は、二次創作としてのアニメThe Last Unicornの仮構的位相にも反映されることになる。
物語の主人公はユニコーンのはずだったが、人間を超越した存在であるため、どこか鑑賞者の感覚とは懸隔を感じ得ない部分があった。理想を求めて無様にあがく姿を見れば、最も身近に感じられる作中人物はシュメンドリックだ。しかし彼もまた、預言と呪いに自らの運命を捕縛された主役の地位を占める人物だ。モリーという対照的なキャラクターとの合一を通して影と本体の補完関係を例証する、物語的意義性に深く取り込まれた主題の体現者だ。典型的な悪役を演じ、人間としての精神力の最高点を具現しているのがハガード王だ。ある意味で最も切実に読者の心情に訴えかけるのが、この老齢の暴君かもしれない。『ピーターとウェンディ』の中心軸を占めていた悪漢フック船長と連接する仮構的地位を占めるのが、この老王だ。ハガード王の声優は、伝説のドラキュラ役者であったクリストファー・リーが務めている。レッド・ブルを操りユニコーンを封印した悪漢がお話のきっかけを創り、自らの破滅でもってお話を締めくくる。“お話”というメタフィクション的主題性をあちこちに封じ込めているのが原作の会話表現だった。
シノプシスでは骸骨が秘密の通路の入口を教えてくれるが、原作では時間論の解体が示唆される。時間は意識の中に妄想された仮説的概念とされる。アインシュタインは“時空連続体”を説いたが、錬金術や占星術の構想する宇宙論は意識の中に空間と物質の全てを含む、“時空精神連続体”の主張となる。この形而上的発想は、『涼宮ハルヒの憂鬱』の閉鎖空間や『Fate/stay night』の固有結界等を通して、日本のサブカルチャーに深く浸透している。時計の暗示する物理的制約を跳躍して主観的意味次元に突入するユニコーンを慕う一行と、物理存在である時計を破壊するアンチヒーローのハガード王の姿が描かれる。ユニコーンに対する無垢の憧れに従うものと純粋な愛の思いにかられたものが、生に意味を与える別次元の入口を探し当てる。しかし魔法使いとして知識と能力に最も恵まれていたはずのシュメンドリックが、遅れを取っている。
レッド・ブルとの再度の遭遇で、再び魔法が行われる。アマルシア姫はユニコーンの姿を回復し、永遠の本性を取り戻す。シュメンドリックは預言を成就して呪いを解かれ、死すべき人間の属性を取り戻す。ユニコーンに従うものたちは自然の成り行きに従ってお話としての究極の結末に導かれる。全てが計算なしに進行するのがこのお話の基本原理だ。そのような物語の肌理が、永遠の存在であるユニコーンの本性と合致する。
日本語訳がなされたシナリオは、アニメ表現構想の過程を語る興味深い資料だ。シナリオには、原作者ビーグルの思弁的発想が窺える。
彼は、道をふさいで立っている、ただ単に、燃える壁と壁にふさがってトンネルをいっぱいにしているだけでなく、壁そのものの中へ、壁をつらぬいて、広がっているようである。おそろしい虹か蜃気楼のように。しかも、実体のない幻影ではなく、なお赤い牡牛であり、湯気を立て、鼻を鳴らし、呼吸に合わせて顎を噛み合わせ、その青白い角は恐ろしい……
ユニコーンの再度の変身も、独特の文章記述で以下のように語られる。
姫の姿が消えはじめ、その位置でユニコーンが形をとる……ユニコーンが。しかし、ほんのすこしのあいだ、姫とユニコーンは共に存在する:ユニコーンは実在で、現実のものであり、姫は、なお、自分自身にしがみつき、洞窟の冷めたい明るさの中で、息(いき)のように、空中に漂い動く……
脚本という文学表現は必ずしも上演を前提としたものではなく、演出家を泣かせる無理を記したト書きの例も多い。シナリオにはこのような放埓な脚本表現の痕跡がある。しかしアニメ化の映像表現の基本アイデアを示唆する部分も、確かに窺うことができる。影に関する記述もある。
牛の巨大な影が、横たわっている王子を横切って落ち、それから、ユニコーンの踊るような、攻撃する蹄に追われて、ふたたびその影は通り過ぎる。
シナリオのこのような部分を手掛かりにして自家薬籠中にしたのが、トップクラフト社の成し遂げた映像表現だった。
絵コンテのエンディングにも、カラスの姿を窺うことができる。全てを見届けて森に帰っていくカラスである。
【画像の出典】
黒田誠『研究 アニメーション The Last Unicorn』 2012